いつのまにか、3人の子どもたちは、成人しました。
いつからか、私の、子どもたちに接する態度が少しづつ変わってきたように思います。
子どもに遠慮している気がしました。
一番、私自身、それをしたくないってずっと考えていたこと。
ここで、今、子どもたちとの関係を考えて行動しようと思います。
- いつしか成長して離れていく子どもを追っかけてた
- 成人した娘たちへ
娘たちは3人。
彼女らの小さい時から、私は、たくさんの育児の本や講演会などで、いろんなことを教えてもらいました。
私は、学習欲が高いです。
うまく反映できたか全く自信がないです。
その時、その時、一生懸命かもしれないけれど、私は不器用だったし、片付けもうまくないし。
いいなとおもうことを、絆創膏みたいにつぎはぎくっつけて、どうにかうまくいかないかと試行錯誤の毎日でした。
その中でも、子どもは皆素直に育ってくれてありがたいです。
成長して離れていく子どもを 追っかけてた
アドラー心理学が流行ったとき、目からうろこが落ちるとはこのことだと思いました。
『課題の分離』…「その課題の責任を負うのは、最終的に誰か」、
「その課題の結論をだすのは最終的に誰か」
進路の問題、就活の問題、まさにここを押さえていけばいいんですね。
この仕事をするのは、私でなく、彼女。
世間で評判の良い仕事であってもそうでなくても、仕事をするのは、私でなく本人。
今日、こんなことがありました。
久しぶりに、しっかりした口調で、娘に対して、『ありがとうといってほしい』と伝えたことです。
(こんなことで、成人した娘に対して「ありがとう」を言え、なんていうのは、自分はなんてちっぽけな人間か。)
(気付かなかったふりをして、スルーしていれば、恰好がつくのか。)
(こんなこというと、嫌われるかも。)
(嫌われたら、悲しい。)
おい、私、どうしたんだ!
今現在、
私の親が年老い、私の関わり方で、親の日常が変わってしまうということが実際にあります。
私と親との立場が、自分の小さい時と入れ替わっています。
今度は私自身が年老いたときに娘たちはどうするのだろうか。
どう思うのだろうか
と、そこまで考えてしまっていました。
そういう自分に気づきました。
私のことを見限らないでほしいと、無意識に思ってしまっているかもしれません。
私は、子どもの人格は自分とは別、と当たり前の大事なことを何回も習ったし、口にもしています。
自分の老後について娘たちに執着しようとしているから、子どもに遠慮するということがでてくるのかもしれないと思いました。
まず自分が自立しよう
私が、以前、子どもが小さい時に比べて、子どもに対し遠慮していると思うことがあります。
私が遠慮しながら子どもに接するとき、それは、私自身が将来に対して不安をもっているときです。
年老いた自分の面倒を見てもらうために、子どもに期待や執着をもつのをやめようとおもいます。
そのために、私も自立するし、子どもたちも自立する、それが大事だと心から書いていて分かりました。
そのための行動として、何をしましょう。
社会人としてお金をどのように私の家計費にいれてもらうのか、貯蓄して自立資金を貯めてもらうのか、相談して決めたいと思います。
子どもに遠慮している自分、自分の課題として、ひとつづつ解決したいなと思います。