感情というと、イメージするのは、「感情的」という言葉。
理性で抑えず、わがまま、反社会的、我慢ができない、何かレベルの低い人間のように感じていました。
さらに、「好き」「楽しい」「うれしい」「幸せだ」…という感情は許して大っぴらにしてもよい。
いや、いい感情も、自慢してはいけない、表してはいけない。(周りにもしかして悲しい気持の人もいるかもしれないから)とも感じていました。
だから、表わしてもいいのは、人に何かしてもらった時に「うれしい」「楽しい」ということを伝えることだけ。
伊藤守さんの『こころの対話』によると、人とコミュニケーションが取れるというのは、自分の心とコミュニケーションが取れていることが大事だと書かれています。
「感情」という言葉から、自分の心とコミュニケーションをとるということを考えてみたいと思います。
自分とコミュニケーションが取れるというのは、 自分の感情がどういうものでも、そのままを認めること。
その上で、シンプルに、無理に何かしようとせずに行動する、ということなのだそうです。
仲の良い関係でいなければいけない、と考える。
そうして、「嫌い」という感情があっても、それを隠して、大人として常識的に仲の良いような言葉がけをする。
これは、コミュニケーションが死んでいるという表現で書かれてありました。
ずっと、私は、このように感情についての存在を考えずに、無理に頑張ってきたように思います。
この本『こころの対話』にもあったように、深く読み解くと、「相手と仲良くなりたい」という目的ではない、もっと違う目的のためにこのような形をとってきたのではないかと感じました。
つまり、
どんな人とでも仲良くできる自分はかっこいい、と人にも自分にもアピールしていたのかもしれません。
自分の感情を大事にすることを後回しにしてきたように思いました。
この一か月で学んだことは、感情にいい・悪いはないということ。
そして、たとえば、「恨む」「嫌い」という感情を自分から追い出そうと思う。
そうすると、「うれしい」「幸せだ」…という全部の感情も、全部退場していってしまうということです。
感情に正しい、間違っているはないということ。
全部が同じに大切で、全部大事に自分の心の中に存在しているものだということです。
だから、何十年も「いい感情」「悪い感情」「表すべき感情」「存在してはならない感情」と自分の中で色分けして、扱いもえこひいきをしていました。
えこひいきぐらいならまだいいけれど、存在の無視、なかったものとして生きていく、そんな感情が存在していたら人間じゃない…くらいな勢いでした。
まず、自分の感情を認める。
人を恨んだことがない人は、いない!とも聞きました。
そうなんです。
人を嫌いになる、その嫌いという感情をもっていても、全然それが当たり前の人間なんです。
大丈夫なんです。
「あの人が嫌い」という気持ちがここにあるな、とそのまま認める。
なぜか、変わったんです。
その「嫌い」という感情があるということを認めることができた!と自分で感じた時に。
相手を許しているのかもしれないです。
嫌いという気持ちが薄らぐのがとても不思議でした。